2008年05月26日
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赤松健先生の「スポンサーはファン自身」という言葉の意味は何か?

Written By: 川俣 晶連絡先

 書いたまま放置されていた文章ですが、放置したままだと賞味期限が切れそうなので公開しておきます。(本当はまだ続きが書かれる予定であったが、そこは割愛)

スポンサーはファン自身 §

 「魔法先生ネギま!~白き翼 ALA ALBA~ メッセージ」に、第3期アニメに関して「スポンサーはファン自身」という言葉が書かれています。

 これを最初に見たときは、「あ、凄く分かってるじゃないか」と思って安心しました。

 しかし最近になって、この言葉の意味が本当に理解されるだろうか……という疑問を感じるようになりました。というのは、「スポンサー」という言葉の意味が本当に理解されているのだろうか、という疑問が出てきたからです。

TV番組における「スポンサー」とは? §

 まず最初に見落とされることが多い大前提を書きます。

TV番組はタダではない

 中間でマージンを取って儲ける者達がいる等の問題はここでは横に置きましょう。とりあえず、番組を作るにも、それを放送する設備を維持運営するにも金が掛かるのは事実です。タダでTV番組は放送できません。どうしても金が掛かるのです。

 その金を誰が負担しているのか、といえば民放では「スポンサー」です。

 従って、以下のことが言えます。

  • 視聴者がどれほど満足していても、スポンサーが満足できないTV番組は放送できない (スポンサーが金を出さなければ放送するためのコストを負担する者がいない)
  • 視聴者にどれほど不満があっても、スポンサーが満足する限り、TV番組は放送できる

 つまり、民放においてスポンサーは客ですが、視聴者は客ではないわけです。

 まずこれは大前提です。

なぜスポンサーは金を出すのか §

 番組中に挿入されるCMや、番組にそのものに間接的に発生する宣伝効果などにより、伝えたい情報を伝えたいときに視聴者に伝達できるから金を出すわけです。

 繰り返しますが、「伝えたい情報を伝えたいときに視聴者に伝達できる」ことが、「金を出す」根拠になります。

なぜネットは嫌われるのか §

 たとえば、放送されたTV番組をCMカットしてネット上に公開したとしましょう。そして、多くの人々がいちいちTVを見なくてもネットで見ればいいや、と思ったとしましょう。この場合、スポンサーにはほとんどメリットがありません。伝えたい情報を視聴者に伝達できていないからです。

 では、CMカットしなければ良いのでしょうか? 確かに情報は伝わりますが、これでは「伝えたいときに」という条件を満たしません。CMとは、今伝えたいことを伝えねば意味がありません。販売が終わった製品や、とっくに終わったイベントの宣伝などがいつまでも残ったところで、それにはあまりメリットがありません。

 つまり、ネットによって不特定多数者間で自由に番組を共有する行為はスポンサーが本来持っていたはずのメリットを奪う行為と言えます。だから、このような行為が一般化すれば、スポンサーは金を出す根拠を失い、TV番組は制作も放送もできなくなってしまいます。

 このような結末を回避するためには、無制限のコピーを許さないシステムと社会制度を導入せざるを得ません。

状況はスポンサーに厳しい §

 この話題は、突き詰めると「コピー制限とTV番組のある世界」と「コピー制限はないがコピーすべきTV番組もない世界」の二者択一になります。

 しかし、現状はまだどちらの状況にも到達しておらず、状況は流動的です。コピー制限機能を持たないアナログ放送が依然として残っていたり、コピー制限の回避策が常識的に共有されていたりする一方、TV番組は多数存在し続けています。

 たとえば、このような状況下でTVアニメを制作すると何が起こるでしょうか?

 放送されたTVアニメはネットを経由して多くの者達によって共有されることになります。その際、CMカットによって、スポンサーが伝えたい情報はまず伝わりません。その状況からスポンサーはメリットを得ることができません。

 念のために補足すると、スポンサーがそのアニメのDVDを販売する会社であり、ネットで見たアニメを気に入ってDVDで買う人が出た等の状況から利益を得る可能性が無いとは言えません。しかし、それは驚くほど小さな割合でしょう。いつでもタダで見られるものに、再度お金を払う人は極めて少数と思われます。

 とすれば、スポンサーが消極的になっても不思議ではありません。スポンサーが付かないために流れる企画や、予算が縮小する企画があっても不思議ではないでしょう。

この問題を解決する手段はあるか? §

 TV番組のスポンサーになることが、「伝えたい情報を伝えたいときに視聴者に伝達できる」という機能性を得る良い手段ではなくなりつつある、という状況を前提として解決手段を考えるなら、別の機能性を前提としたスポンサーを探す必要があります。

 このように考えたとき、最もストレートで分かりやすいのは、視聴者自身に金を出させ、彼らをスポンサーにするという選択です。

 「スポンサーはファン自身」という言葉は、まさにそのような意味を持ちます。

 この場合、スポンサーと視聴者がイコールであるため、TV放送という手段を使用する意味もありません。TV放送は、できるだけ多くの人に情報を伝達する機能性のために選択される手段であって、その機能性が不要なら選択する必要のないものです。

 つまり、見る者が満足して金を出し続ける限り、アニメが制作されるという健全な環境が生まれるわけです。

 (コミックにOVAを付けるのは初めてではないとはいえ)リスクを背負ってこのような、新しいスタイルを積極的に求めていく態度は、1つのあるべき望ましい姿と言えます。

 つまり、20巻のエヴァの台詞そのものですね。

踏み出した者がより多くのリスクを負うのは当然だ

だがそれが何だ?

安全圏で惰眠を貪る

腐った豚よりよほどマシ

掴むに値するものは

リスクの先にあるのさ

……ってまあ

死んだら そこまでだがな

(それもまた良き人生哉)

余談・歴史は繰り返す §

 「視聴者自身に金を出させ、彼らをスポンサーにする」という発想は、1980年代のOVAが生まれた時の発想と同じようなものだと思います。この当時、アニメといえばスポンサーは玩具メーカーが主であり、玩具メーカーが売りたいロボット(とても兵器とは呼べない派手な色彩と非論理的なフォルム)をどうしても作中で活躍させざるを得なかったわけです。そのような制約から解放されて、ファンが見たいアニメを見るための手段として、玩具メーカーではなくファンが金を出すシステムが出てきたわけです。

余談・リスクを取る赤松作品? §

 考えてみると、ネギま!という作品はリスクを取って成立した企画です。そもそも、「ラブひな」のような美少女ハーレム型作品で評価を得た立場でありながら、男の子を主人公に据える作品で勝負を仕掛けるという態度が既にリスクを取っています。

 更に、アニメに関しても第1期はともかく、第2期の「ネギま!?」において、オタク向けと目されるアニメを深夜ではなく夕方の時間帯に放送するという選択は明らかにリスクを取った新しい挑戦です。

 何も、第3期OVAだけがリスクを取った挑戦というわけでは無いのです。

 そこから更に考えてみると、「ラブひな」のTVアニメも、過去から現在に至るまでレギュラーのアニメ放送時間帯として使われる頻度が皆無に等しい夜10時台に放送するという大きなリスクを取っています。この時間帯にそれまで放送されたアニメが無いわけではありませんが、『マンガ日本経済入門』のような作品が主であり、美少女アニメをこの時間帯に放送したのは、かなりリスクのある挑戦だったと思います。

 (アニメ『マンガ日本経済入門』のヒロインが可愛くなかったという意味ではない。けっこう可愛かったような漠然とした印象は残る)

 とすれば、赤松健という作家とその周辺領域はリスクを取った挑戦の積み重ねで成立していると考えてよいような気がします。

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